ロシアのサンクトペテルブルクにあるエルミタージュ美術館を紹介します
エルミタージュ美術館は、モスクワのプーシキン美術館と並び賞されるロシアの二大美術館の1つである。ロシア第2の都市であるサンクトペテルブルクにあり、小エルミタージュ、旧エルミタージュ、新エルミタージュ、エルミタージュ劇場、冬宮の5つの建物で構成されている国立美術館。
現在、エルミタージュ美術館本館となっている冬宮は18世紀にたてられたバロック様式のロマノフ朝時代の王宮であるため、大理石による華麗な装飾にいろどられ、美術品以外にも、この美術館自体そのものが大きな魅力となっている。部屋の総数は約1500室で、そのうち約400室を美術品の展示に使用している。
1764年、サンクトペテルブルクにあったロマノフ朝の女帝エカチェリナ2世によって、コレクションの収集は始まった。エカチェリナ2世は収集した作品を隣接の離宮エルミタージュ(フランス語で「隠れ家」の意)に収蔵したことが発端となっている。
エルミタージュ美術館として一般公開されるようになるのは、1917年のロシア革命によって国有化されてからのことである。現代までに収集された美術品の総数は約300万点と言われ、そのうち、エルミタージュ美術館に展示されているのは約7000点である。
コレクションは、ヨーロッパ美術に特筆する品が多いことでしられているが、それ以外にも古代美術であるギリシャ、ローマ、エジプト、メソポタミアの品。日本を含む東洋美術、貨幣、絨毯、ブロンズなど多岐に渡っている。
レオナルド・ダ・ヴィンチ 「リッタの聖母」「聖母ブノワ」、レンブラント「ダナエ」、ラファエロ「コネスタービレの聖母」、ゴッホ 「夜の白い家」、マティス「ダンスU」、ゴッホ 「夜の白い家」、マレーヴィチ 「黒の正方形」、クロード・モネ「白い睡蓮」、エドガー・ドガ「踊り子」、ゴーギャン「実を持つ女」などが有名。
エルミタージュ美術館があるサンクトペテルブルクとはどのような所なのでしょうか。
サンクトペテルブルクは、ピョートル大帝によって1703年5月27日に築かれた人工都市であり、ロシア帝国の首都として長く定着していた。
ロシアの北西端に位置しており、現在の人口は約500万人でロシア2番目の大都市です。バルト海に面していることもあり、ロシア有数の港湾都市であるとともに、鉄道・国際航路の要衝でもある。
ロシアを代表する工業都市でもあるサンクトペテルブルクは、大規模な火力発電所、原子力発電所を要し、造船業、電気、工作機械、化学、繊維など工業も盛んである。
ソ連崩壊後のサンクトペテルブルクは、モスクワとくらべると社会資本整備がおくれていたが、2003年の建都300年祭にむけて大補修工事が市内各地でおこなわれ、帝政時代の旧都の輝きをとりもどした。2006年7月15日から17日にかけてロシアが議長国となって、プーチン大統領の出身地であるサンクトペテルブルクでG8首脳会議が開催された。
郊外にあるペテルゴーフ宮殿は、1714〜24年に、ピョートル1世(1672〜1725)の命により建設されたバロック様式の夏の離宮である。イタリア人建築家ラストレリによって1747〜54年に増築がおこなわれている。
市内には精緻な装飾をほどこした宮殿がいくつもあるが、なかでも冬宮がもっとも著名である。冬宮は1762年に完成した装飾の美しいバロック建築で、1917年のロシア革命でロマノフ朝が倒れるまで歴代ロシア皇帝が冬の間の住居にしていたところである。現在は、エルミタージュ美術館の本館となっている。
ロシア美術館は、1895年4月13日ロシア皇帝ニコライ2世によって父帝アレクサンドル3世を記念してロシア最初の国立美術館として開館した所である。その後のロシア革命で多くの個人蔵コレクションが国有財産となり、ロシア美術館の収蔵品となった。エルミタージュ美術館とは対照的にロシア民族が生んだ美術品が展示されており、宗教博物館となっているカザニ聖堂とともに人気がある。
エルミタージュ美術館の元となったエカチェリーナ2世はどのような人物だったのでしょうか。
彼女は、現在はポーランド領となっている北ドイツで貴族の娘として生まれ、ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケと名づけられた。
幼少の頃から家庭教師に育てられ、フランス語に堪能で合理的な精神を持った少女に育つ。生来の優れた頭脳を活かし、知性や教養を磨いて魅力的で美しい女性となる努力を重ねたという。やがて、ゾフィーは14歳でロシア女帝エリザヴェータの甥であるロシア皇太子の后妃候補となる。
1744年、サンクトペテルブルクに到着したゾフィーは、優れた頭脳を生かし舞踏、ロシア正教、ロシア語をマスターする。そして、名前をエカチェリーナ・アレクセーエヴナとした。1745年に皇太子ホルシュタイン公ピョートルと結婚。しかし、結婚後も長期間夫婦の関係はなかった。
1762年にエリザヴェータ女帝が死去すると、夫ピョートルは皇帝に即位、エカチェリーナも皇后となった。
しかし、ピョートルの行うことは、ロシアの内外で不評を買った。また、皇后エカチェリーナを廃する動きがあったことから、1762年7月、エカチェリーナ皇后は、近衛連隊やロシア正教会の支持を得てクーデターを敢行した。そして、クーデターはほぼ無血で成功した。
エカチェリーナは、正式に女帝として即位することとなり、1762年9月、モスクワで戴冠式を行った。
エカチェリーナ2世は、当時ヨーロッパで流行していた啓蒙思想の崇拝者で、ヴォルテール、ディドロなどとも文通して、教育の振興・病院の設立・文芸の保護を行った。社会制度の改革にも取り組んだが、国内で特筆すべき成果を上げることはなかった。
豪放磊落で派手好みのエカチェリーナ2世は積極的な外交政策を推進し、オスマン帝国との露土戦争や3回のポーランド分割などを通じてロシア帝国の領土を大きく拡大し、ボリショイ劇場や離宮エルミタージュ宮殿(現在の小エルミタージュのこと。後に隣接する冬宮など新旧の宮殿と合わせ、現在はエルミタージュ美術館として一般公開)の建設にも熱心であった。
ロシアの文化・教育の整備にも力を注ぎ、英邁の誉れ高い女性側近ダーシュコワ夫人をアカデミー長官に据え、ロシア語辞典の編纂事業に着手、後世のロシア文学発展の基盤を造る。また、女子貴族のための学校を設立し、ヨーロッパ諸国の宮廷・社交界に送り込む貴婦人の養成にも力を入れた。エカチェリーナ2世自身も文筆に勝れ、回想録、書簡、童話、戯曲などの文芸作品を残している。